日本刀は古くからわが国が誇る鉄の文化財です。

四方山話17 眼にかさぶた

2013年11月08日 更新

四方山話は我ホームページの遊びの部分で読みちらしていただければ、それで充分ですから、適当に思いついた事を書いてきました。⑯を剣友岩坪氏にたのみ、その後、書き続けようとして、書けなくなってしまった。
理由はある図録を見たことによる。
図録には、奉納刀が多く紹介されていたが、刀身に、奉納者名、奉納年月日が金釘流の線彫りで長々と刻まれている。
生々しいのに何の意が有るのか解らず、眼からウロコが落ちた、とは言うけれど、カサブタが出来たような気分になった。

二、三の識者にたずねたところ、けっこう存在するらしく奉納先の神社、仏閣から散失をふせぐ意が有るとのことであった。
つまり数百年の昔から奉納先が手放すことが有ったことになる。
その点を又々問い合せたところ、奉納された物品を奉納先が処分することは、ごく普通のことであることであった。
眼のカサブタが増々厚くなり、実は何度も色々な想いをぶちまけようと、書き始めては行きづまり、気が滅入ってしまっていた。

ところが、以前茎に表、刀工銘・製作年月日、裏、奉納者名・年月日・奉納先まで刻銘された刀の押型を入手していた。
たま々、観光旅行で、奉納先に行くことが有り、押型をコピーして持参したことがあった。
そのコピーを見た、そこの代表者がまるで無感心であったことに気分を悪くしたことを思い出した。
刀身に奉納者名を刻すのは、奉納先から散失することを防ぐ意が有ったことがよく解った。
茎では目立たない。
これ以上書くことが嫌になったが、刀身にへたくそな線彫りで名を長々と刻するなど救されることではない。

日本刀に対する私の思い込みが、神話のようなことだと思われてもかまわない。
先の短い人生であれば、数十年の私の思いを捨てることなどまっぴらごめんである。
刀匠達の努力の深さと結果の美術性を高歌放吟して過そうと思っている。
人の世のことでしかないとは承知の上で、刀と刀匠達に救しを請いたくなる。